下嵯峨と嵯峨野

嵯峨近辺

桜の季節になりました。下画像正面は嵐山です。
山肌に少し写っていますが左下の 中之島公園では桜が満開です。
下嵯峨のふじわら堤から 西方向の渡月橋を見ています。

嵯峨は上嵯峨と天龍寺の二つの地域に分けると理解しやすいです。
上嵯峨は室町時代まで 嵯峨一円に大きな力を持っていた大覚寺との
かかわりが多くあったところです。

天龍寺地区は言葉の示すとおり
南北朝以降 力を伸ばしてきた天龍寺が支配した地域で
嵯峨を南北に二分する新丸太町通りや下立売通りの南側に位置します。
今 最も観光客が多く集まる地域で 下画像の渡月橋から手前の右側方向です。

下嵯峨は この画像の反対側 東側にあり
三条通りをまたぐ 小さな地域で 昔は川端村と呼ばれていました。
その名のとおり 川に強く依存していたところです。

下嵯峨から 嵐山と反対方向の地区は 嵯峨ではもうなくなり
観光地とは全くと言っていいほど縁のない嵯峨野地区になります。
そしてその東が 太秦広隆寺や東映映画村のある 太秦地区です。

古くから下嵯峨は 丹波地方の材木を扱い 嵯峨の地とのつながりが薄く
大堰川の対岸にある松尾大社の氏子であり
愛宕や野宮の氏子が行う嵯峨祭にも参加していません。

土地の高さが他よりも低く洪水の影響が一番強いところでしたが
普段は 水不足の傾向にあり それに関して上流の村とのもめ事がよくあったそうです。

また 他の地域とは異なり 条里制の影響を受けていないようです。
嵯峨地域は 東西や南北の土地区画の方向が
16度ほど西に傾くという特徴が 平安時代からありました。
地図を見れば 今もそのような傾向が確認できます。

子供たちが通学する小学校の通学範囲 つまり学区制は
行政の都合と その地区の住人の繋がりが強く反映します。
そのため 生田(おいた)村と高田村 (この二村がのち嵯峨野村になる) と
川端村とが共同で 明治の初め頃 川端校として開校されました。
現在は紆余曲折を経て下嵯峨単独の嵐山小学校になっています。
明治22年には 嵯峨野村は 太秦村の一部となり
現在は分割され 嵯峨野小学校になっています。

実は 私は嵯峨野小学校に 四年生まで通学していました。
そんなこともあり 嵯峨野生まれの私としては 下嵯峨を話題にして
くどくどと 書いてしまいました。

ふじわら堤から三条通りを通って渡月橋
2017 4月13日 8:30a.m.


*ふじわら堤は 罧原堤(ふしはらつつみ)と公的に表記されていますが
嵐山学区郷土誌研究会発行の 郷土の今昔
ふじわらと発音することを肯定しています。

帷子ノ辻という地名があります。
かたびらのつじ と読みますが 同じ読みで 住所表記は帷子ケ辻です。

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